好きという気持ちは、事実だったし今も変わっていない自信がある。もし、変わっていたのなら、あの人の笑顔をこんなにも簡単に思い出せないだろうし、話した感触すら、遠い過去になっていただろうから。でも、私は違うと確信できると佐和子は思う。例えば、今、一緒に寝てる男がその人ではなく別人であったとしても、簡単にあの頃感じた全てを感じれるのだから。

「おはよう」

佐和子とさっきまで寝てた男、溝口達男が起きてきた。彼は不思議なことに、佐和子が起きてからきっかり1時間経ってから起きる。佐和子は、初めこそ彼のやり方なのか、と思っていたが、達男は自然とそうならしい。きっかり1時間。彼はわたしに自由時間を与えられてるのだ、と佐和子は思う。佐和子はそれまでやっていた椅子に座ってしていた読書を止め、彼のために立ち上がる。

「止めなくてもいいのに」

達男はそうやって、顔を緩ませる。

「そう?」
「うん」

佐和子は緩んだ達男の顔が見たくて、そして彼のためにするであろう台所仕事を彼のキスで止められるのを、知っていて、わざと読書を止めるのだ。佐和子と達男は読書会を通じて知り合った。その頃の佐和子はボロボロだった。愛しい人を失って。彼女は神様を恨み、人生を半分捨てていた。その半分のつなぎが、読書会であった。その頃読んでいた本は、いつもは夏目漱石や森鴎外などの本を読んでいたのだが、本屋大賞をとった、有名な本である。達男に言わせるとストーリーも平凡な普通の小説、であった。佐和子にとってその本に集中することで心のバランスをとっていた。しかし、夏目漱石などの本に比べると平凡な分、頭を使わなくて済んだ、余計なことを考えなくて済んだのだった。あの頃の佐和子の思考はあの人で一杯で、頭を使う度にあの人のちょっとした仕草や感覚がみるみる蘇って、彼女を苦しめた。その頃の読書会で達男と出会った。当時は彼に恋人がいて、彼女の付き添いで読書会に参加したのであった。佐和子はその時は何も感じなかったが、達男にはびびっときた、と彼が一緒に寝る様になってから教えてくれた。佐和子はその時のことを聞く度に、大袈裟ねと言う。あと、わたしは何も感じなかったわ、とも付け足す。その言葉を聞く達男はまるで捨てられる子犬のような表情になる。佐和子は達男が彼女の言葉で一喜一憂するのを見たくて、わざと言うのだが。

「コーヒーはいつものでいい?」
「いや、今日はミルクが欲しいな」
「珍しいわね」

達男は基本的にはブラックコーヒーしか飲まない。佐和子にはミルクと砂糖が必要だ。先に誘ったのはどちらだったけ、と佐和子は思う。気がついたら、達男は恋人と別れ、佐和子と寝るようになったのだ。佐和子が原因であったかは分からない。ただ、彼は恋人と別れ佐和子を選んだのだ。

「さーちゃん」
「なあに?」

達男は佐和子の事をさーちゃんと呼ぶ。

「結婚しよう」
「本当に?」

佐和子はコーヒーを入れながら、からかうように、達男の顔を見ずに答える。

「本気だよ」

沈黙。佐和子はさーちゃんと呼ばれる前の私だったら、どう答えるだろう、と思いながら、だめよ、といつの間にか答えていた。達男はどうして、と聞かなかった。ただ、彼は佐和子がそう答えるのではないかと知っていた。達男はすごく煙草を吸いたくなった。佐和子が煙草を嫌がることを知ってから、止めていたのだ。

「本気だよ」

達男はもう一度そういうとコーヒーも飲まずに帰っていった。佐和子は考えてた。でも、やはり結婚相手はあの人しか考えられないのだ。だから、たっちゃんとは結婚できない。コーヒーがすっかり冷めてしまっていた。そのコーヒーを片すと、佐和子は読書に戻った。規則正しい、日常に。