『或る女の小説』
昭和の夏、私たちは青空の下にいた
「センセッ、まぁ」
「人を主人公にしたんなら、肖像権料を頂きたいワ」
「はぁ?」
「ヤダァ、なんでそんな間抜け面になっていらっしゃるの」
アハハハ、と小さく笑い声を立てる。康介はまたかっとあきれる。彼女、藤沢都美子がこのような言動を取るのは珍しいことではない。彼女はこういう人だ。しかも、康介にだけ。内弁慶というやつであろうか。しかし、違う気もする。心を許している証拠なのだろう、と康介はそういう風に納得する。それを都美子は面白がる。
康介の住まいの近くの木造二階建てのアパートに、都美子のために、部屋を借りた。居間と台所だけの小さな部屋だ。居間には小さな障子がついており、外を見渡せる。障子のそばには小さな文机がある。
康介は人と同居するのが苦手、ではないが、相手は女である。そこははばかられるので、彼女のために部屋を借りたのだ。
康介は作家だ。物書きだ。しかも、それなりに売れている作家だ。なので、家賃に関しては問題が無かった。そして、からかうときには彼女はいつも、センセッ、と高めの声で呼ぶ。
彼女の暮らしは謎だ。家賃はもちろん康介が払っているが、他の食費などは受け取ろうとしない。彼女いわく、相談料で生活している、なのだが甚だ怪しい。
「センセ、なぁにぼぉっとしてるんですか。この女の最後に、立ち去る場面は陳腐すぎというかロマンチストですわねぇ、康さんは」
主人公の女があたしには関係の無いことですから、と愛していたそれまでの生活を振り切って立ち去る場面を、都美子はそう批評する。
「でもまぁ、人様を勝手に登場させたのだし、モデル料、頂きますワ」
「・・・売れたらね」
「ウフフ売り上げの5パーセントですよ」
都美子はいやな女だなぁと、康介は時々思う。
「先生、今度の小説、出来はどうですの?」
「うん、まあまあかなぁ。でも、売れるかどうかは作家の関係の無いところで決まっちゃうから、僕にはどうしようもないんだけどね」
「うふふ、売れるといいですわね」
「うん、そうだね。でも売れたら売れるで、作者の意図がそれだけ大勢の人間に伝わってるのか疑問だね。意図がわかる少数の人に売れるのがいいのか、意図を誤解されても大勢の人に売れるのいいのか、どちらがいいのだろうな。あ、焼酎のお変わりと大根もらっていい」
「はい、どうぞ、あいつですよ。でも売れた方が好いに決まってますわ。だって曲がりなりにも意図は伝わるのでしょう。大勢の人に売れた方が、正しく意図が伝わる可能性がおおきいんじゃぁありませんか」
「ははは、そうだね」
康介は「たまお」に来ている。そこは女将さんの玉緒が一人で切り盛りしている小料理屋だ。
康介は小説の出版が決まると一人でこの店で飲むのが日課だ。玉緒は戦争で夫を亡くしている。この店は戦前から夫婦で夢を見ていた店であり、子供のようなものだ、と玉緒は思う。だから、私はこの店を絶対に手放せないだろうと。
「玉緒さん、本当はね明日も来たいところなんだけど、さる屋敷にいかないといけなくてね」
「お屋敷・・・ですか」
そうなんだ、と康介は少し、都美子の行動に対する憤りを力をいれて表現した。
「そうなんだよ。都美子君が相談を受けたので行かなくちゃぁおいけない。しかし、私一人なら相手にしてもらえないだろうから、ついてこいって言うんだ。僕は、そりゃ君の勝手な都合だろう。僕の都合を考えたことは無いのかねと言ったんだ。そしたら、なんて答えたと思う?」
「先生と必ずお伺いするっておっしゃったんでしょう」
「そうなんだよなぁ」
「うふふ、都美子さんらしいわ。面白くて、私はあの方に好感をもつわ。それに、そうでもしないと、先生はまたおうちに引きこもってしまうでしょう?」
「それはそうなんだけどなぁ・・・」
「まぁ宜しいじゃぁないですか。次の本のアイディアでも頂いてくれば。ね、先生」
「じゃあ、明日は気をつけてくださいね」
「ああ。気をつけるよ」
康介は気が重かった。僕が行っても解決できないことはたくさんあるし、解決できることの方が少ないだろう。
夏だった。
蝉が命を燃やすように鳴いていて、それが悲しく思えた。